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2007年 02月 22日
8 ー La morte nel pomeriggio
あの日曜、スタジアムに向かう間、私は奇妙な気分だった。ひとつの感覚。もしくはひとつの暗示といってもいいかもしれない。なにか非常に重大な事が起ころうとしているように感じてたのだ。こんなに激しい雨、どんよりとたれ込めた雨雲、これまでまるで見たこともないような。その上、試合もそうだった、これまで見たこともないような。。。ペルージャでは、僕たちはずっと以前からこの試合を待ちわびてていたし、何ヶ月も前からこの試合のために準備をしてきてた。多分そういうわけで、この日は、他の日曜とは何か違うと感じてた。また空気も違っていた。電気放電のような、何か見えない力が、全てを、みんなを、支配していたように感じられた。
その日曜とは、1977年10月30日だった。
セリエAのためのスタジアムとして、故意に突貫で造られた、コンクリート部分の少ないそして鉄骨造が大半を占めるピアン・ディ・マッシモ新スタジアムにて、ペルージャはユヴェントスと試合をした。その試合自体、私にとっても、私たちにとっても特別なことではあったのだが。
巷ではビアンコネーリの選手達を見ることは難しいことであった。もちろん、ゾフやベッテガ、タルデッリやベネッティのようなスーパースターが見れると想像することさえも難しかった。あの時は、もっとそうだったのだ。ペルージャは、トラパットーニ監督率いるイタリアチャンピオン相手に、ピッチに堂々と入ってきた。特に最初から何かあったわけではなかった。イベントの中での出来事。あの日曜を、みんながクリスマスのように心待ちにしていたのだった。ある意味、宗教的なそしてミステリーな。
そして本当にとんでもないことが、悲劇的に重大なことが起こってしまった。あの日曜、レナート・クーリが死んだ。ペルージャの背番号8をつけた彼は24歳だった。私のアイドルの一人であった。彼のハートに打たれていたし、それだけではなかった。
今日もそのことに想いを馳せると、あの土砂降りの雨、あのとんでもない試合、クリスマスのように待ちこがれていた一日それらは、運命によって描かれたただの劇中の一部であり、余りある悲劇のための添え物であった。
私は、クルバにいた。見ていた試合が、別のとんでもないことになるとは想像さえしていなかった。本当のことを言うと、クーリがピッチの真中で倒れている時、プレー中の接触というだけで他にたいしたことは起こっていない、という印象を持っていた。私の回りもそう思っていた。そういうわけで、試合中断の間、雨を避けようとしばらく傘をさしてみたりしていたのだが、そもそもクーリは怪我から復帰したばかりで本来はまだプレーしてはいけなかった。この1週間の間、そういう疑いのある状況であった。だから倒れた時に、足首を傷めたんだと考えるのは易しく、普通のことだった。
しかし、ピッチから去る担架は、一人の選手と共に、偉大な人物をも連れ去ってしまった。中盤でプレーするクーリは、チームのベースを担ってた。彼が怪我を負い、プレーの調子の不確かさは、ユベントス相手に彼が出場できるのかどうか、試合までの1週間私たちを不安にさせていた。うまい具合にその週の木曜にスペッロで親善試合が行われ、カスタニェール監督は、彼のコンディション、足首の負荷に対する反応等を見極めたかった。
その親善試合を見に、スペッロには、私も見に行った。結果を知るのに一日も待ってはいれなかったからだ。翌日の新聞の試合結果記事を読むのを待てなかったのだ。クーリが出場ならばユーベを倒すことが可能だったが、クーリが出ないのならそれは不可能だったからだ。これは本当のことだ。その親善試合は、疑いをぬぐい去ることはなかった。不確かさが残ったが、希望もあったのだった。
スペッロといえば、私も5年、あの同じピッチでプレーしたことがあった。そしてまだあの頃の思い出は、ペルージャやクーリ、そしてあの悲劇と結びつくのだった。よくそのことを考える。私のスポーツ人生とペルージャとが一つに結びつくように。ただの偶然なのかもしれないけれども、あまりにも多く起こる偶然。偶然から生み出されたものとは言い切れない。
そしてあの呪われた日曜もまた、一つの偶然の重なりがあった。本当は私はペルージャ対ユベントスを見れるはずではなかったのだ。19歳だったあの頃、フォリーニョでプレーしていたのだが、負傷中だった。そういうわけで今、あの試合は"私の"見た試合となり、あの悲劇は"私の"見た悲劇になったのだ。ペルージャのサポーターだけがこれが何を意味するかを知っている。
試合は0-0で終わった。審判の終了の笛に、なにか居心地の悪さを感じ始めた。身体の中から、身体の表面に及ぶところまでその居心地悪さが感じられた。人々は出て行こうとしなかった。私にもその理由は分からないが、まるで何かを待つかのように全員がそれぞれの場所に残っていた。留まり動かなかった。私のいるクルバだけではなく、トリブーナ席も観覧席までもが。至る所全てが。合図もなく傘がたたまれていった。そしてまもなく大勢の叫び声があちこちであがり、そして恐ろしいくらいの静けさとなった。まるで突然、スタジアムの中に雨で洗われた40000もの彫刻があるかのような風景だった。私の回りの顔の表情は、様々で引きつり、奇妙に映った。私の友達がそっと教えてくれた。「クーリが死んだと、みんなが言ってる。」
衝撃は私にほとんど走らなかった。その言葉は、私の魂深くに届いた。その言葉を繰り返す。「そんなことはない。あるはずがない。サッカー選手が試合中にピッチ上で、観客の前で死ぬなんてありえない。しかも彼がだ。レナート・クーリがだ。」聖書の中のダビデだって、ゴリアテとの戦いで死んではいないし、そうやって物語も終わることはないのに。
その言葉を信じることも理解することも出来なかった。私の気分をもっと悪くさせたのは、まったく気づかなかった、ということだった。足首を使ってボールを蹴るために、死んでしるってことがあるのだろうか。いや、あるはずがない!どうやってスタジアムを後にしたのかは覚えていない。頭と身体がばらばらのように感じ、茫然としていた。今日でも、スタジアム周辺の人々のブザーや駐車している車から大音量で流れるラジオの声等、今もそのままだ。あの頃のようにサンドロ・チョッティの声がはっきりと聞こえる。低く悲しげに、やっと何を言っているか聞き取れるような。あの声は泣いていた。そう、何時間も我々は泣いていたのだった。
その後、今までみたこともない秩序を持った団体がたどり着いた。みんなが病院にやってきたのだ。自らの意思の下、やってきた一群だった。もしくは最後の望みをかけて。「全部誤解だよ、真実じゃないんだ、ただのいつもの足首の怪我だったんだよ。」そう言ってくれるのを聞くためにやってきたのだ。
モンテルーチェ病院はペルージャの丘の上に建っていた。私は家のあるポンテ・サン・ジョバンニへ向かうためにいつもその病院の前を通っていた。門の前で立ち止まる。あらゆるものからその門は閉ざされていた。私が抱いた子供じみた幻覚さえも拒否されているかのようだった。長い間、私たちは立ち止まったまま懸命に祈った。そして、ユーベがやってきた。
混乱の中、金髪のフランチェスコ・モリーニの姿を認めた。近寄ることが出来たのはロメオ・ボネッティだけだった。ビアンコ・ネーリの面々はいつもテレビで見ているそれとは全く違っていた。みんな驚愕の面持ちだった。多くの人を変えてしまった一日だった。クーリの同僚だけではなく、敵もサポーターもあらゆる人間に対して、ある深く強烈な痕跡を残した。しかし、ピッチ上での悲劇は、言うなれば、悲劇以上のものなのだ。あれから24年がたった今も、あの頃のペルージャの選手達にとって、痛みがまだ薄れるということはない。追悼ミサでは、ヴァンニーニ、アメンタ、ナッピ等の全ての選手達の石のように茫然とした表情は、悲劇後の数日間のそれとは変わってはいなかった。クーリの葬式で見たすべてを私は忘れない。変わることもないだろう。あの悲しいエピソードは、まさにリーグ優勝のように、ペルージャを強固なものとしたと私は考える。私を含む、多くの、全てのペルージャを愛する人間にとって逆説的に重要なものとなった。結局は、クーリは私たちに取ってヒーローなのだ。彼は犠牲となったのだ。監督としてスタジアムを訪れ、スタジアムの正面に掲げてある彼を記念するプレートを見あげるたび、私はそう感じる。
大なり小なりヒロインの登場するすべての物語は美しく回想され、そして伝説となる。
レンゾ・ルキーニはクーリが病院に運ばれる救急車に同乗していた。今でも、彼はペルージャのマッサージ師で、よくあの日の、あの時間帯の、あの瞬間の話をしてくれる。彼の話はもう既に何度も聞いているのだが、いつも何か新しい詳細が発見される。そして飽きさせない。私はその物語が好きだし、夢中になる。それはペルージャの伝説。
しかし、その伝説にも敬意を必要とする。私はペルージャにとって重要ではない時や文脈中に、クーリ・スタジアムについて話したことはない。その名前を誇大表現したくないのだ。しかし戦いが行われるのは、まさにその伝説のクーリの倒れたスタジアムなのだ。それを知らない人間には、私たちが説明しなければならない。その記憶、思い出によってペルージャが力を引き出されなければならない瞬間なのである。
私がペルージャの監督になった第一日目。チーム紹介の際、妻や子供達を前にして、私はクーリスタジアムについて話すことに、スタジアムクーリの中にいることに興奮した。喉をつまらせるくらいの興奮。6月という季節のせいなのか、気持ちがほてっていたからなのか、汗ばみ始めた。本当に私だったのだろうか?夢にまで描いた、ペルージャの監督をするのが、本当に私なのだろうか?
今も、ピッチのあの場所を過ぎる時は震えが走る。あのクーリが倒れた場所。あの日曜の戦慄。

# by sersecosmi | 2007-02-22 06:11 | 第8章:ある午後の死
2005年 11月 02日
7 Il destino dietro una medaglia
恐らく、私たちそれぞれの歴史は、いくつかの章に分かれており、運命という手のひらの中で無意識に主人公を演じている。
そしてまた、望むべく方向へ、ポジティブなエネルギーを向けることのできる能力があれば、その時だけは、運命における事象を変えることができるであろう。それに関して話すと複雑になるが、過去の私の人生に関して思い返すたび、私は熟考し続けてしまう。全てがひとつのある方向に向かっていると感じるのだ。実際、人々と物事は絡み合い、一度離れても結局は、明らかに、遠くにあるそして違った習慣と状況が繋がりあっているものだ。それは大きな大きなデザインでもある。
哲学?そうかもしれない。
1972年6月18日、それは既に夏のようなある日曜のことだ。私は短パンをはく14歳であった。セリエBのペルージャは、ホームにてシーズン最後の試合をしていた。もちろん私も、いつものようにそこにいた。私の作った旗と熱い情熱を持って。しかしその日曜は、特別な日曜だった。
対戦相手はジェノアで、私は、この2つのチームがピッチの中央に一列に並ぶのを待ち、そしてサンタ・ジュリアーナ・スタジアムの階段席の金網を乗り越えた。ポケットには、金色のメダルが入ったケースを忍ばせていた。私につづいて金網を飛び越えた友達の手には花束が握りしめられていた。このメダルと花束は、ペルージャの監督グイド・マッゼッティに渡すためのものであった。それを彼のところに持っていき、彼に渡さなければいけなかったのだ。なんとしてでも。
そう言うのは簡単なことではあるが、ピッチの周囲には陸上トラックがあり、ベンチまでは何キロもあるように感じられた。スタジアムも人で埋まっていた。とにかくその時には、恐怖というものがどういうものか知らなかったし、そういう性格でもあった。つまり何かを決心したらやり遂げなければいけないという性格だ。私は、私たちの行く手を阻止しようとした警官に「これは試合の邪魔をしようという侵入ではないんだ」と言って説得することに成功した。あこがれと情熱からうまれた行為でしかなかった。
しかしレースが終わったわけではなかった。到着した時には興奮と動悸が入り交じっていた。私はペルージャの、私の大好きな監督と強く手を握ろうとしていた。私の好きなチームは私から数mのところにあったのだ。辺り一面には写真が飾ってあった。
メダルを渡そうとしたとき、私は卒倒しかけた。持っていたケースが空だったからだ。走っていた時にそれを落としてしまったのだった。赤面する前に、躊躇する前に、私はドジを踏んでしまっており、そのことは冷静さを繕わせた。数歩戻り探し、メダルを地面にみつけた。それはトラックの上で輝いていた。もしそれが芝生の中で落としていたならば、決してみつけることはできなかったであろう。しかしそれは通って来た道筋上のそこにあった。友達が花を渡す大事な瞬間ののち、ほどなく、私は再びマッゼッティ監督の前に立った。メダルと言っても、飾り気のない取るに足らないものであったが、そこにはひとこと「Grazie」と刻まれているのだった。
このアイデアは、私の父によるものだ。それは、ペルージャファンを2分していたある戦いにおいて、彼を応援し、擁護するためのありのままの行為であった。チクリズモ界で起こったコッピ派とバルターリ派のように、当時マッゼッティ擁護派と反対派があったからだ。
バールでは他の話題等、出てきはしなかった。その頃の言い合いは聞くに堪え難い激しさで、日中続いていた。その2つの派閥は、地元新聞La NazioneとIl messaggioの記者達にあおられ先導されていた。
普通のイデオロギーの対立のように見えたこの2社のやりとりは、ほとんど宗教戦争の様を帯びていた。寸評を読むとまるで2つの試合、2つのチームであるかのようだった。Nazioneのジャンフランコ・リッチは、マッゼッティ監督を支持する第一人者であった。ずっと昔から。Messaggeroの若き記者ランフランコ・ポンツィアーニは、その大勢に対抗していた。今となっては、説明し理解させようとすることは難しいが、当時はラジオもローカルテレビもなかった時代である。警鐘するものもなかった。そしてペルージャの街は、街中がお互いを知っているというような小さな田舎街にすぎなかったのだ。この戦いは、家族の争いであるかのように見えたものだ。もちろん暴力等もなかった。
私たち、父と私は、監督側についていた。なんと!私たちはペルージャのベンチ、そして監督を防護することに成功したのだ。当然全ては私の父がやったものではあるが、あの2社の話題は、私たちの話題となり、彼らは話題を共有したのだ。このグイド・マッゼッティ監督のことについて話し、彼の功績を説明するのを聞くのが、私は好きだった。結局、これは街の歴史の小さな一部となった。彼は、ペルージャを1967年にセリエCからBに昇格させていた。それだけではない。外部からこの街に住み着いた"ペルージャ人"でもあった。戦前にサッカー選手としてやって来た彼は、すぐにアイドルになった。そして一人のペルージャの女性と結婚し、彼は実行部隊を終えながらゲリラ隊に加担した。戦後、市民の援助を受け街の評議会議員になり、その後ペルージャのチームに関わるようになったのだった。そういうわけで、彼はある意味特別な男だった。優秀であった。私の父が彼を支持したのも偶然ではあるまい。それから彼が率いたチームは、あるものが信じきりたくなるぐらい、下手なプレーをすることはなかった。真のサッカーを、伝統的で私の父親がポンテヴェッキオでやっていた好みのサッカーを見せていた。私にとっては、もっと簡潔な話、マッゼッティは人間として非常に気さくで、私には勝利者に見えていた。魅力的な人物だった。
私がアマチュアチームの監督をしていたその後も、個人的に彼と知り合いになったわけではないが、彼の信念は私も参考としていた。時々、ちょっと変わった歩き方をする既に老齢となった彼と道ですれ違った。声をかけ、彼にあの日曜のことを覚えているかどうか尋ねる勇気はなかった。あのメダルの日曜日。
私はよく覚えている。私がペルージャの監督となった今でも、あのころのことをよく思い返す。特に、何かの表彰によばれた時や、プレゼントをもらった時、子供達が私に近づいて触ろうとする時、彼らと熱く握手をする時。しかしより強い興奮は、あの日のあの興奮と同じくらい常に持ち続けている。セリエAにて自分の街のチームの監督をしているのは、ほとんどあり得ない、個人的な特典である。恐らく私だけであろう。運命として、1972年のあの日曜のことが既に書かれていたのか、もしくは私が最初に書いたのかは、誰も知らない。

# by sersecosmi | 2005-11-02 05:20
2005年 09月 23日
6-7 La fabbrica delle bandiere
しかし、まさに喜びが最高潮のとき、その灯りは消された。闇に戻った。審判エマヌエレ・センツァックアに馬を一頭贈ったというエピソードのために、ガウッチのペルージャは、ペナルティを受け、セリエC2に降格させられてしまったのだ。私にとってこのサッカー協会の決定は、ひとつの不運であり、陰謀であり、我々の強さとは別のところにあるイベントであった。私は、ガウッチがそうであったとは思っていない、それどころか、彼だけがペルージャを上位に引き上げることのできる人間だと信じていた。私は常に、時々風変わりで変わっている人物だという親しみと、サポーターとしてセリエAへの情熱を見せることができたという印象を持って、彼を見ていた。今日において、私は別にへつらいとして言っているわけではないし、私の気質の中にあるものでもない。そう常に私が思っていたということは、私を知る人間はよく知っているはずだ。
それはバールでも私のこの考えを封印していた。私はずっと「ガウッチャーノ(ガウッチシンパ)」だったのだ。恐らくそれは本能的なもので、生理的なものかもしれない。もしくは、運命による引き合わせだったのかもしれないが。私がペルージャ人でありガウッチのペルージャのサポーターであるということは、アレッツォで監督をしている時でさえも、隠しはしなかった。アレッツォとペルージャが、歴史的にもサッカーチームとしても、敵対していたとしても。
セリエC1のプレイオフの試合を控えている、ある日曜の朝、妻と子供達と一緒に車でアレッツォに向かって運転している時、ティフォージの呼びかけに耐えることができなくなってしまった。テロントラ近くで道を逸らし駅に行き、昇格試合のためにブレーシャへ向かうペルージャのサポーター達が乗っている列車が去るのを見送ったものだ。
首にビアンコロッソのマフラーを巻いた息子エドアルドを肩に乗せ、そしてアレッツォの監督だったとしても、私は気が狂ったように叫んだ。「ペルージャをセリエAに!ペルージャをセリエAに!」
恐らくこの時、運命の半分が決まっていたのであろう。恐らく。4年後、セリエAにのぼったこのペルージャは、"私の"ペルージャだっただった。ポケットに「Drunk boys」の会員券を入れることを選んだ一人のサポータ、セルセ・コズミのペルージャだ。ペルージャに夢中の少年達、Drunk boys。
ふともの思いにふけるとき、今でもそのちょっと夢中になってたことを幸せだったと思う。

# by sersecosmi | 2005-09-23 07:28 | 第6章:横断旗の工場
2005年 09月 23日
訳後のitaの感想
ガウッチってば、過去にそんなことしてたんや。。。やってても全然不思議ではないけど。
それよりも、コズミ君、ガウッチにへつらってないかい!?

# by sersecosmi | 2005-09-23 07:20 | = itaの感想
2005年 09月 22日
6-6 La fabbrica delle bandiere
残念ながら今日では、アウェイについていくサポーターの数は、200人もいれば、もう満足なものである。カスタニェールやマッツェッティに率いられていたころのペルージャのように、私のペルージャがミランとサンシーロで戦ってた頃のあの群衆がいたならいいのに、と思う。興奮し浮かれた3000人が見れたら。それは多くの人に幸せをプレゼントするようなものだ。ここ最近カルチョは、スタジアムからスペクタルなショーを遠くに追いやるような、テレビ放映問題や暴力の恐怖によって、多くのものを失った。
80年代前半は、私は多くの試合を見損ねている。というのも常に日曜の午後は、昇格戦や第一カテゴリーでの試合に出ていたからだ。80年代後半はポンテヴェッキオのチームに戻り、土曜はサンタ・ジュリアーナでプレーしてからティフォージとしてペルージャの応援に行くのだった。もちろんもう大旗も横断幕も持っては行かなかったけれども。この時の偉大なるこのチームには、ラヴァネッリ、ディリーヴィオ、ランバウディ、ビアがC2で戦っており、私に多くの感動を与えたものだった。
私は既に、州リーグに所属するポンテベッキオの監督になっていたが、ペルージャがアチレアーレとのセリエBへの昇格試合の時には、フォッジャへの直通バスに乗り込んだものだ。それは1993年のことだ。そのころには、いくつかのサポーターグループが生まれていた。私は、ポンテ・サン・ジョバンニの街の「Drunk boys」のグループの一員であるという会員券を持っていた。今でもそれを持っているが。
フォッジャにはまだ着いていない、優に6時間は過ぎているというのに。しかし高速道路のバスの中では、フェスタがなされ、ビアンコロッソの長い横断幕が張られていた。100台以上のバスで、15000人のサポーター。私は、かっこいいユニフォームを身に着け、チェラミコラというお菓子の入ったナイロン袋を持っていた。それは伝統的なタルトで、砂糖で色付けされた、放射状に白く、そして先の方にクーポラ持つ円形状のもので、アルケルメスという赤いアルコール飲料で湿らされていた。赤と白、お菓子までもペルージャ色に色付けされていたのだった。母は私が小さかった頃、よく作ってくれたものだが、20年経ってそれを再び持たせてくれたのだった。車庫の、チンクエチェントの、横断幕や大旗にふけていたあの頃のように。そのプレーオフでペルージャは、2-1で勝った。子供達のアイドルのうちの一人、と言われていたFWトライーニが決めたのだった。勝利のゴールで沸き立った混乱のために、私は10段も転げ落ちてしまった。もちろん帰りのバスでも大フェスタであったし、町の中心、コルソ・ヴァヌッチは夜中まで盛り上がった。

# by sersecosmi | 2005-09-22 02:42 | 第6章:横断旗の工場
2005年 09月 06日
6-5 La fabbrica delle bandiere
私のウルトラス生活は、1972年まで続いた。その頃の多くの思い出とヌーメロ6のユニフォームは大切にしまっている。その赤いユニフォームは、とても美しかった。胸元にはグリフォンが、襟は白く、白いステッチがついていた。当然スポンサー名はない。それは、ハーフバックのデッレ・ヴェドヴェのユニフォームだった。有名な選手ではなかったが、懸命にプレーをし、彼は努力と熱意を持っていた。私の父が彼を好きだったのだ。そのユニフォームも彼からのプレゼントだった。今でも大切に引き出しに入れているし、それを見つけて愛おしむたび、一つの空想をするのだ。ピッチ上に、私の好きだったペルージャがこのユニフォームを着ているという風景を。そんな、歴史のある、伝統的な、まだ私の中に残ったままであるあの時代のユニフォームなのである。
それから私は、ポンテ・ヴェッキオでプレーをし始めるようになると、あの頃の日曜の午後、クルバへの、チームへの情熱というものが、なんと強かったであろうと気づくのだった。それができなくなり非常に寂しかった。スタジアムへ運ぶたくさんの横断幕を選ぶのに頭を悩ませたあの朝、サポーターの集う場所の一つであったフィロソフィ通りにあるスポーツバール、そこには私の多くの旗があった。私がある希望を託してプレゼントしたものだ。私がいなくてもクーリでそれらの旗を掲げてくれることを。遠くにいても応援に参加し、何らかの方法でそこにいたかった。
このように日曜とは、一つの楽しみがあったのだ。決して私はペルージャを忘れたことはなかった。私がポンテ・ヴェッキオで土曜に試合をした次の日には、必ず私もクルバに加わっていた。昇格のかかった年などは、1試合も見逃したことはない。ノヴェッリーノに夢中になった頃は、彼のようなすごい選手をこれまで生で見たことはなかった。何度かはアウェイにも行った。トリノで行われた、ユヴェントス対ペルージャの試合は今でも覚えている。バスで夜明けに発つのだ。1つのチームを、ひとつの情熱とひとつの意思をもって応援するため、3000人で組まれたキャラバン隊だ。一体となる社会的な、特別な瞬間だった。その試合は2-1で負けはしたものの、アウェイのあの試合を思い出すと、今でもわくわくしてくる。

# by sersecosmi | 2005-09-06 17:24 | 第6章:横断旗の工場
2005年 09月 02日
6-4 La fabbrica delle bandiere
実際、スタジアムは、我々サポーターが開けるのだった。13時ちょうど、私は横断幕の筒と共に入っていった。私は早く着きたかった、なぜならそれらを広げ、金網にとりつけ慎重に結びつけるための時間が欲しかったからだ。それと、よりよい、より見渡せる席をキープしなければいけなかったからだ。私は横断幕をきちんと見せるためにしばしば金網を超えたものだが、その後再び金網の中に戻りたくはなかった。ピッチの中の私の家にいた。もしくは、そこが私の家だったと言った方がいいかもしれない。その頃は、そんな精神状態になったのだった。
それはともかく、私はセリエBの試合すべての結果を見守り、その多くを見たものだ。話は変わるのだが、ある日曜、テルナーナとのダービーがあった。1年における重要な試合だ。いつものように私は1時に着いたが、クルバ、私のクルバが既にほぼ満員となっていた。そこは忌み嫌うべくテルナーナのサポータによって占領されてたのだった。大きなショックだった。彼らは、あの2,3000人のサポーターを入場させるために、先に門の鍵を開けてたのだった。気絶しそうになるのを堪え、とにかく私たち席、そして横断幕を張る場所をなんとか確保した。そこにはバリアも隔てるものも喧嘩もなかった。応援と対抗意識、押しとストップがあった。今日で言うなら、こう想像してみてください。ローマダービーにおいて、スタジオにラツィオファンがやってきて、クルバ・スッドを埋めつくしている状況を。ペルージャでのそんな状況において、その時はまったく何事も起こらなかったのだった。
またある日曜には、何かが起ころうとしているという危険を察知した父親や他のペルージャの人々によって、私や友達を救ったことがあった。ペルージャは、ラツィオと戦っていた。そのとき、私たちのクルバの大部分がラツィオファンで埋められていた。一方、私と私の友達は、金網に横断幕を張り付けようとピッチにいたのだが、恐らく冗談であろうが、ラツィオファンが私たちにみかんを投げつけ始めたのだ。1つ、2つ、3つと、その後は私たちも我慢がならなくなり、彼らが投げつけるみかんを拾い上げ、クルバに投げ返したのだった。恐らく誰かに命中したのだろう、私は知らないが、席に戻ろうとして金網を超えたとき、しばらく私たちはラツィオサポーターに囲まれたのだ。恐怖はほとんど続かなかった。というのも私たちのサポーターが駆けつけてくれたからだ。一方、私の試合はずっと続いた。横断幕は取られ、まるめられてチンクエチェントに運ばれたのだった。そういうわけで、私はスタジアムには最初に入場し、最後に出て行くようになった。

# by sersecosmi | 2005-09-02 18:38 | 第6章:横断旗の工場
2005年 09月 02日
6-3 La fabbrica delle bandiere
母親は、忠告したものだ:昼食は、必ず11時半から12時の間に食べなければいけません!決してそれより遅くならないでね!それでも私の姉達は、ミサに行くから、友達と散歩するから、等と逃げ口上を言ってたものだが、試合前になると、それらは全て後回しにしなければいけなかったのだ。たくさん食べるわけではなかった、特に冬は。「そんな満腹でどこに行くつもりなの?うっ血になりたいの?」母親は毎回そう言っていた。彼女に黙っていてもらうために、私たちは家で昼食をとらず、スタジアムにパニーニを持っていくようになった。チンクエチェントに"仕事道具"を、つまり横断幕や大旗を持ち込むには、車のルーフを開け、慎重に筒状に巻かれたそれを前の席と後ろの席との間に差し込んだ。車から3,4メートルも突き出ているのだが、ペルージャに向けてゆっくりと、最大でも時速50kmで進むのだった。Poggioの山道ではまるでフェスタだった。恐らく父親にとっては、ジーロ・イタリアに行くかのようで、何度かは、ルーフを開けながら、Torriani選手になったかのようだった。私にとっては、ただ単純に、サポータのもうひとつの冒険、といったところだったのだが。
そんな運転する父親を、驚いてみていたものだ。私の父親のようなのは、一人も見当たらなかった。3歳の時Pontevecchioチームのマスコットをさせたり、5歳の時テヴェレ川に放り投げられたり、8歳でウルトラサポータになることを許すような父親なんて、、、

# by sersecosmi | 2005-09-02 17:46 | 第6章:横断旗の工場
2005年 09月 02日
6-2 La fabbrica delle bandiere
私はペルージャのとりこだった。相当なものだった。おっと、これは、ニック・ホルンビーによって書かれたアーセナルの90年代の熱狂的ストーリーではない。ペルージャに対し、物理的にダメだったわけではなかったが、私は自分の役目を全うした。そして多いにそれを楽しんだ。
私の、ウルトラスとしてのサポーターの隠れ家は、地下倉庫だった。その中で、横断幕や大旗、スローガン等が生まれたのだった。私と父はそこから、明るい空色のチンクエチェントに乗って、サンタジュリアーナに出かけていた。日曜の習慣となっていた。常に、時間、リズム、物事および行動は同じで代わり映えのしない、けれども違ったものであったのだ。
朝、地下倉庫に私は行き、スタジアムに持っていくのになにがいいかを決めながら、最後の準備をする。たいてい毎週やっていた。ビニールの長い横断幕と共に、小さな横断幕もいくつか作った。そして、そこにはユーモアにあふれた、少々の嘲笑を含むスローガンとしてフレーズを考えつき載せるのだった。一度は、高慢なテルナーナとのダービーの際、次のように書かれた横断幕を見せたものだ。「Urban e Traini, morte ai cugini」それ以来、そこTerniには行かなかったが。
UrbanとTrainiはあのペルージャのFWであった。私にとってこの2人は正真正銘驚くべき人物であった。あの頃のフォーメーションは全て覚えている。「Caccioatori、Olivieri、Marinelli、Azzali、Polentes、Cartasegna、Dugini、GabettoそしてTurchetto、、、」奏でる音楽のように。
私の好きな横断幕は、「Grifoを苦しめろ!」であった。このアイデアは、私の友人のものだ。地下倉庫で、一緒にこの横断幕を準備したのだが、やはりそれは私が発案したかったなぁ。仕方がない。でも私は本当に多くの横断幕を作った。もちろん、旗もだ。色のついたプラスチック製ではある、四角であったり、格子状であったり、ストライプであったり。斬新なデザインだった。
旗の柄は、選択の幅がほとんどなかった。それらはいつもテヴェレ川から取って来るのだった。川に沿って、竹やぶが映えているところがあった。美しく、長い、節の多い丈夫なものだった。そこには父親と行ったものだ。のこぎりやナイフで武装し、一番良さそうな竹を切り出すのだ。そしてそれらをきれいに洗い、試合に備えた。

# by sersecosmi | 2005-09-02 17:13 | 第6章:横断旗の工場
2005年 07月 13日
6-1 La fabbrica delle bandiere
私が子供だった時には、まだウルトラス(熱狂的ファン)は存在していなかった。スタジアムの周囲には2つの人種がいたものだ。スポーツ観戦ファンか、サポーターか。
試合を見に行くスポーツ観戦ファンは、ジェケットを着てネクタイを締めてテアトロに行く人々のその精神と似ている。スタジアムのスタンドでもほぼ同じである。スペクタクルな催し物を楽しむために、そしてあの頃ラジオの中でスローガンとして言われていたのだが"彼らの心から大好きなチームが勝った"ならほめ讃えるために、負けたならあれこれと討論するために、出かけていたものだ。
一方、サポーターは、ネクタイをつけてる人はまばらにしか見ることはない。ジャケットはまだ着ているものの、常にというわけではない。階段席、クルバは、叫んだり、驚喜したり、ある場合には応援旗をはためかすことの許された場所であった。時々、げんこつの見舞われる場所でもあったし、サポーターは退却することはなかった。全て健全で純真なものだった。そしてその場で終わるのだった。
ペルージャでも、多かれ少なかれこんなものだった。そのころは、サンタ・ジュリアーナ・スタジアムで行われており、それは丘の中腹の家と家の間にあった。セリエA昇格の1975年には、リーグ戦には使われなくなったが、今でもまだ残っている。サッカーの、一つの世界、一つの時代の静かな証人である。
ありのままに言わねばいけないとしたならば、私は、スタンド席でみることがスポーツ的か、階段席で見るのはサポーターなのか、と全く感じた事がなかった。私の父も、こんな感じだったと思う。私たちは常に、時流に従い、なんとかカテゴリーの中に閉じ込めさせようとしていた。自由な精神?もちろんそうだった。といっても、我々はより興奮してより熱いそしてよりサポータであったし、より巻き込まれていたのであろう。そんなのが好きだったのだ。恐らく、そういう事も知る事なく、私は一番のウルトラスサポータの一人であった。しかし、別次元である、不良グループや群れをなすグループとは混同しないで欲しい。

# by sersecosmi | 2005-07-13 06:29 | 第6章:横断旗の工場


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